つくばカウンセラー夫婦の日記

お互いがカウンセラーの小学校の同級生夫婦が日頃考えていること、感じていることを日記形式でつづっています

記憶に残るもの、記録に残るもの、そして思いというものはどう残っていくのだろうか

わたしはこうしてブログを書いています

日記みたいのを書くようになったのは中学2年の時

残ってはいないけれど

もう40年毎日書いているのか!

 

ブログだと15年続いてるよな

 

 

そうか「はてな」も15年やってるんだ

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連続投稿日数 5516 日

 

 

 

 

 

 

 

誰にみてほしいというのではなく

自分のために書いているんだけれど

自分のために

自分の思いを正確に記しているのかと言われれば

・表現が稚拙だったり

・眠かったり、体調の点でまとまっていなかったり

・そして時間をかけられなかったり

 

で、書いた自分も見返してみて

思うことはいろいろあるけれど

 

当然ながら

自分でもどういうつもりで書いたのか意味不明なところって

出てくる

 

 

自分でもわからないことを

後から他人が読んでわかるのか

と言われると

当時の自分ですらわかっていない可能性があるので

こういう記録ってどこまでが本当なんだろうとは思う

 

 

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こっちを向いているけれど、この顔は歩きたくない時、何もしたくない時

記録はまだいいけれど

記憶ってこれまた扱いがたいへん

 

 

記録は客観的な記述として残っていくものだけれど

記憶している本人が忘れたり

途中で解釈が変わるものだから

 

 

自分では記憶がよい方だと思ってきたけれど

最近になってそれも自信がなくなり

そもそも自信があったとしても

その記憶って正しいのかと疑い始めているから

なんなんだろうね

 

 

 

それに

一昨年・昨年と自分のルーツをたどる旅に出てみて

150年前の世界ですら

たどることが難しいんだなーって

150年前だから生まれる100年前

 

100年前・150年前と

自分のルーツを探るとしたら

それは何が残っているんだろうか

残っていたとしても

それがその時の思いをどれだけ表しているものなのだろうか

 

100年前・150年前って気の遠くなるような年月だけれど

自分だって50年以上生きているわけだから

そう考えるとそんなに昔だという気もしない

 

 

今までは眼に見えるような

記憶・記録にとらわれて

それを残そうとばかりしていたけれど

下村博史という人間が生きてきたことを

そのままその思いを残すのはどうしたらできるのだろうか

残す残さないの前に何が残るものなのだろうか

 

 

残るとしたら

自分は何をしたらよいのだろうか

そんなことを考えながら

具合悪い一日を過ごした