つくばカウンセラー夫婦の日記

お互いがカウンセラーの小学校の同級生夫婦が日頃考えていること、感じていることを日記形式でつづっています

運命の話をさらに考えてみることで、自由になれるのだろうか?

運命の話の続きです

 

小学生から中学生にかけて

運命について考えることがあって

 

運命論者(当時の理解では、何でも運命付けてしまうという)

学校で習った「人間万事塞翁が馬

(のちに知事となる青島先生がこの時小説を上梓されていましたね)

 

など

 

自分のやっていること

具体的には自分の選択が

果たして正しいのだろうか

正しかったのだろうか

と考えることが多くなったような気がします

 

つまりは

「運命のせいにはしてはいけない」

とはいえ

「だったら自分の運命とはいったい何なんだろうか」というもの

 

そういう壮大な「運命」という言葉が

逆に

日常の因果応報に結びついたのが

いたんだメロンを人にあげようとして

自分が食べることになったマンガのワンシーン

igmonostone.com

 

これも今回の件で考えれば

一度は窓から捨ててメロンを食べることから逃げたのにも

関わらず

結局もう一皿出されて仕方なく食べているのは

「運命」として自分で引いてしまった

 

つまりはこれも因果応報だと自分で認めてしまったからなのか・・・

 

ということもできる

 

 

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撮影記録から見るとコミュニティカフェでのワンシーン、懐かしいな

運命というのは難しい

 

以前なんだけれど

 

友人との思い出で

「運命」って言葉はこういう風に使うのかというエピソードがあります

 

あるお店に勤務していた友人ですが

そのお店が惜しまれつつも閉店となり

跡地に入ることになった別業態の店は

その友人の友人が偶然にも始めるもので

その場所でまた働くという

 

これを「運命」だというもの

 

 

「運命」という言葉がわからなくもないのですが

 

よくよく考えると

つまりは

この場所・このスペースで働くことが運命となり

 

わたしにはよくわからない

と当時思ったものでした

 

そういう割には

なぜかしばらくして辞めてしまう事になり

本人にも店主にも聞くと

「さあ」という感じ

 

働くのも運命であれば

やめるのも運命ってなるので

 

なかなか運命という話になるのは

大変な事だなーと思ったものでした

 

 

ここまで書いてきたように

「運命」を自分で決めていいんだ

と考えれば

 

今までなんでこんなにかしこまって考えていたんだろうっていう気持ちになります

 

一方で

自分で決めていいんだというのであれば

運命を連発してしまうので

それこそ収拾がつかなく予測がたちますが

しばらくは自由に考えてみたいものです

 

特に

それを

選択しなかった

成し遂げなかった

引き受けなかった

というのにフォーカスしてみたい

 

どうなるんだろう

具合悪くなっちゃうかな

 

具合悪くなっちゃうのも運命なのかな