テレビを見ていたら
来場者の一人が
「昭和の時代は余裕はなかったかもしれないけれど令和の今の時代にはない生活の中に無駄があってゆとりがあった」
みたいなことを話しされていたのが印象に残った
年齢は自分のむすこ世代だろうか
ナレーションは
「どんどん便利なっているけれど心の余裕がなくなっている」だったかな
まとめるとこういうこと??
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昭和 |
令和 |
余裕 |
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◯ |
生活の中のムダ 日常の中のムダ |
◯ |
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ゆとり |
◯ |
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便利 |
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◯ |
こころの余裕 |
◯ |
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言いたいことはわからなくもないが
似たような言葉でよくわからないで
そうだねそうだねと相槌を打っても結局分かり合えないこともあるから
ちょっと考えてみる
「インタビューされた人」
今ほど(時間的?経済的?物質的?に)余裕がなかったかもしれないけれど
日常の中にムダを置いておけるだけの
(時間的?空間的?気持ち的?に)余裕があった
「ナレーション」
便利になっちゃうと
その分、常に動いているような状態になるから心の余裕は無くなるよね
インタビューされた人の言葉をナレーションがまとめた
いや
編集者が言いたいことがナレーションで
編集者が伝えたいことのためにインタビューの部分を取り上げたと
考えると
便利になっちゃうと余裕がなくなるのは当然な話ではあるが
それでも便利さの追求が止まらない社会の問題なのか
われわれの問題なのか
別に番組についていうんじゃなく
この言葉を拾ったわたしに向けて言うんだけれど
「便利さと余裕のバランスをどう取っていくか」
この問題は今に始まったことではなく
わたしが就職するときに持っていた課題である
メーカーに就職するけれど
この先そんなに欲しいものなんてあるのだろうか???
口を開けて餌を詰め込むように無理やり買わせるような社会になるんじゃないか?
携帯やインターネットがあるじゃないかと
言われるかもしれないけれど
すでに基本的な技術はあって
コストの問題で普及していなかっただけなのでそう言うのは該当しない
(その時の議論ではね)
コストの問題で普及はしなかったけれど
何かの弾みでコスト問題が解決し普及してしまった結果
人間社会の営みに影響を与えてしまった
それでよかったんだろうかと考える
便利なっているけれど心の余裕がなくなった
と言うけれど
それって結局のところどっちを取るの??と言う話??
それを対立させること自体もそれでいいのだろうか??
今SDGsが大流行りで
教材にも取り上げられているから関心を持って読んでいる
わたしは55歳で記憶があるのは5歳からだとして
50年前のこの社会の様子を覚えている
今、50年前、記録で見る100年前、150年前、200年前
その変化を思ってみると
今の社会って
よくまあお金も労力も資源もあったなと感心してしまう
だってもうインフラの維持が難しいっていう話なんでしょう
つまり
お金も労力も資源もない
だったとしたら
今までなんでできたの??と言う話が思いつく
他に回すことをしなくてこれに賭けた
人の権利など無視して働かせた
極端な集中によって実現させたものであればあるほど
この先、あれもこれもを維持していくのは
あれもこれも便利さを追求していくのは限界があり
「どんどん便利なっているけれど心の余裕がなくなっている」と言うのは
便利さに身を置いてしまってるからこそ、
つまりは便利さと引き換えにするものを考えずにいたからこそ感じるものなのだろうか